<BT 美術手帖 2002年5月号 >


ギャラリー・レビュー/加藤万也 展(大阪府立現代美術センター)

 たとえば「初めて鑑賞した現代美術の展覧会を覚えていますか?」と聞かれたら、私は正直思い出す事はできない。しかしながら初めて鑑賞した現代美術の展覧会で加藤万也の作品に出会っていたら、難解な現代美術の扉を、私はもうすこしスムーズに開けられたのかもしれない。それは生誕まもない雛鳥が初めて見たものを親鳥と認識する、いわゆる刷り込みとしての意味ではなく、現代美術に対しての前提知識をもたない人々にとって、加藤の作品はきっかけとしての導入口になりうると感じたからだ。

 機知に富む加藤の表現を、たんなる思いつきと捉えるか、はたまた鋭い感性とするかは鑑賞者の判断によるものだが、純粋に「なるほど、こういう考え方もあるんだな」、というふうに思考が末広がる。薬缶の先にトランペットなどの管楽器がついた作品や、複雑にねじ曲げられ、けっして外すことができない知恵の輪の作品など。私たちの日常生活での常識や思い込みに、加藤の視点をとおした作品によって少しズレを生じさせ、無意識のうちに普遍化された価値観としてのモノサシを私たちに顧みさせるトリッキーな行為。しかし彼はそれらの作品に対し知的な解釈を求めているわけではない。ただただ加藤自身の切り口の提示であり、私たちはそれを見て心地よいモノサシの揺さぶりを彼からフランクに与えられるだけなのだ。

 彼の生得の感性が経験的に得られた事実を介し、究極のかたちへと削ぎ落とされたアレゴリカルな作品。部分的に既製品を用いていることも手伝い、それらはどれも美しい仕上がりとして私たちに映る。私は加藤の作品からデュシャンによって用いられたレディ・メイドをとおしての<見直し>を感じたわけではない。ただ加藤の作品をきっかけとして現代美術に直面し、私自身のモノサシ揺さぶりを感じ、そして加藤万也に出会ったのである。それは幸福な出会い方であったと思うのだ。

古川 誠(美術批評)

2002年4月