BIG WORDS

 私の作品は、美術の方法に対してわざと無関心を装っているように見える事があるらしい。しかし特にそれを狙っている訳でもなければ、正攻法からの逃避をしている訳でもない。言うなれば、今まで美術の王道として扱われて来たらしき美術の約束事に興味がないのだ。ここで言う美術の約束とは、表面的な意味での「技法」や「美術批評における解釈論」だけを指しているのではなく、美術が美術たるためにあらねばならぬとされた立脚点というものを、盲目的に信仰しようとする作法体系を指している。

  美術を「美」術品としてしか見ない鑑賞者、もしくはそのような見方しか持とうとしない鑑賞者には、私の作品におけるファクターバランスが美術の約束事に傾いていないため、周辺に立しているように見えるのだろう。一方私の表現がたとえ「美術の作法」に納まっていたとしても、あくまであとからついて廻る解釈というキーワードを中心に据えた場合のみの話だ。

 表現の原初には、表現される「他者」と表現する「私」との関係を明示化するという動機があったはずである 。それが様々な恣意的引力により偏重肥大して今日の美術という体系が出来上がっている。美術史という頑強な父によって去勢された美術内美術はその内包性によって今や自虐的であるかのように見えるし、一方エディプスコンプレックスのようなアウトサイダーアートも部外の安堵からか身勝手な振舞いというレッテルを剥がす気すらないかのようだ。 とはいえ表現行為そのものが「私」と「他者」の関係を示す事を放棄したとは私は考えてない。

 しかしながら、今日における「私」と「他者」の関係は空中分解/内部崩壊してしまっている。その事象として、それまで盛んに行なわれたその手の議論がいかに不毛であったかを我々は無意識に体験させられており、現実感が希釈された空気の中でしか生存出来なくなってしまった事があげられる。

 私が提示する表現とは、本来の私のモチベーションに忠実である事、現在の私のリアリティーに即している事、そして何よりも、その表現がどういう派生効果を他者に与えうるかを自己把握しておく事、それらを重要なポイントして構成されている。それらなくして何らかの表現手段をたとえ見つけだしたつもりになったとしても、「私」から乖離した手慰みの表現手段では、かくのごとき希薄な現実の前では「他者」との関係軸を容易く見失ってしまうのだろう。

2002年8月