作品が作品となるには、、、


たとえ美術作品というレッテルを貰ったとしても、
美術の好みは人それぞれ様々だ。

それを
「なんなんだ?コレは!」
そしてそれが、
「面白いじゃん」
と、鑑賞者に思わせるよう転化させるには、
鑑賞者が通常生活しているときの思考回路から逸脱させる手段が必要だ。

つまり、そこに鑑賞者自身による新しい発見をおこさせない事には
通常思考の解釈になってしまい、鑑賞者の脳がゴゴゴッと動き出す事はない。
つまり、アートとして認識する回路が動き出さない。

私が作品を作る時に、常に意識している点はそこである。


しかしながら、いわゆる過去のアートが携えてきた「芸術家の感性」とか
「個人内の意識」といった個的/閉塞的な要素で、煙に巻いて落とす様な事はしたくない。
それは過去の優れた芸術に寄っかかるアーティストの思考手段だと思う。
そして幸か不幸か、私にはそんな寄っかかりたくなる先人がいない。

もちろん過去には私も、
そんな手法を使って「こういう事なんじゃない?」とタカをくくっていた事もあった。

しかし、それを打破しなくてはいけなくさせられたのは、イギリス留学という体験だった。
言葉も違えば文化も違う、ましてや日常の価値観すら異なる連中相手に
「オレはこんな事考えてる」と伝えなくてはいけなかった。

あれこれ泥にまみれながら、必死で考え出して出て来たキーワードが、
とにかく自分に正直である事。
というものだった。

自分の背負った文化や、触れて来た体験など、それがたとえくだらないモノであろうと、
分かったフリして、背伸びして、一生懸命カッコつける事の方が、
実ははるかに見苦しくカッコ悪いのだと、否応無しに気づかされた。

そしていま、作品作りの手法として、オブジェという形態を選択しているが、
その主要素として自分に課せているのが、
誰でも知っている日常を使って表現するという事。
電車だったり、フォークだったり、画鋲だったり、コーヒーカップだったり、、、。

そうする事によって逃げも隠れも出来ず、脳が動くかそうでないかしかなくなってくる。
どれだけ日常から鑑賞者がジャンプできるか、、、
そこに私の作品の意義があると思っている。
そして、アートの今日的役割とは、そういう点にあるのではないかと思っている。

そして理想的には、理解が解釈に直結するのではなく、
その中間に、意識革命が起き、帰着点として、新しい地平が開かれる事。
少しでも早く、そういった点にたどり着きたいものである。

2006年1月