<季刊誌「てんぴょう」013号/2002秋 「加藤万也/池田郎子」より抜粋>
無為に日常を過ごすことへの無言の抵抗
加藤の作品は、端的に言えば、日常の事物に遍在する小さな疑問への独善的な洞察や常識のずらしを精巧に作品に組み込み、アイロニーとユーモアをたたえた物に作り替えたり、世界の別の見方や可能性を提示したりするものだ。もっとも、作品は殊更に主張を強くせず、多くはさりげなく存在し、ずれの極小化や平然な有り様ゆえに、観者は仕組まれた作品形成の要所を見逃してしまうことさえある。
今回の出品作は概ね小振りなオブジェ。知恵の輪のように見せながら、実際は1本のステンレス棒を捻っただけの、分離できない作品。螺旋状に刻まれているはずのネジ溝を、平行に彫った、使えない似非ネジ。首は振っているが、肝心の羽根が回転しない小型扇風機等々は、効用を捨象した軽妙洒脱な一発芸みたいな小物群である。単なる悪戯好きともとられない際を行っている。電車などどこでも使える、取り外し可能な持ち運び式吊り輪もある。加藤は、これを重そうなアタッシュケースに収め、便利さに張り付いた逆説的な不便さという毒も忘れない。
一方、置き物にあるボトル・シップの横たえられた空き瓶から小型模型の帆船が瓶の外に出ている『グレート・ジャーニー』のように、粋な作品も散見される。プラモデルみたいに、大理石のバラを作るキットを装った作品は、加藤が従来いかにも市販薬っぽく装って作ったユニークな偽薬パッケージの連作『薬箱シリーズ』の延長上にあるものだ。
加藤はオブジェ以外にインスタレーションや映像なども制作するが、そのセンスが最も光るのはオブジェだと思う。ニヤリと笑いを誘う軽度のものから、ロマンティックな、もう一つの世界を見せる作品まで、作品の幅は広い。加藤は、社会通念上の了解、常識、認識、信頼に疑問符を付け、無為に日常を過ごすことへの無言の抵抗を偽悪的に裏返し、作品に反映させる。もっとも、これまでの作品では、そうした整合性と説明が雄弁に過ぎた場合がない訳ではなかった。大仰に社会慣習や通念を切開し、常識に反する見方を加藤が提示しようとする時、定義できない不確実性が放つ衝撃を減じてしまうケースもあった。
日常的なまなざしや自身の具体的な実感をもとに作品化する加藤の姿勢は、ある部分で若手の作品との共通性も含んでいる。しかし、彼がより若い世代より決定的に異なるのは、彼は単に外界の事物を脱臼し、脱力的に非日常を指し示すことを拒否している点だ。毅然として社会や制度、日常世界と対峙し、クールな作品に確信的な力性を落とし込もうとする加藤は、決して不完全さや不明瞭さ、優しいファンタジーを志向しはしない。
加藤の作品には、時折、名古屋のアーティスト仲間や家族、友人など密接な間柄にある人々が登場する。加藤にとってのアートは、普遍的とされる欧米のスタンダードではない。そういったものを吸収しながら、彼にとってのリアリティーは、自分が生きてきた世界の実感である。それを単に内面的ファンタジーとして見せるのではなく、人々の了解事項への直截な疑念を悪魔的なユーモアをたたえたもう一つの態様に確信犯的に変換して提示するのだ。偽悪的であると書いたのはそうした意味である。
井上 昇治(中日新聞記者)
2002年10月