裸眼で見るぼやけた世界

 私は視力が少しだけ弱いので、普段は眼鏡をかけています。眼鏡がないと世界はほんの少しだけぼんやり見えます。状況によって、はっきり見えて欲しい時や、はっきり見えているだろうと相手に思われている時は眼鏡は欠かせません。人が生きていく上には、ちょうどいいバランスがあります。「目がいい」という人でも10キロ先のものをはっきり見るのは大変でしょう。そういう人がたいてい望遠鏡を携えたりしていないのは、そんなに遠くを見る必要がないというよりも、見えていない人の方が多いからだと思います。みんなが見えていないのなら、矯正してまで見えなくても構わないのでしょう。望遠鏡を使わないと見えない様な所が見えていない事で、不自由はしないのでしょう。

 世界を認識しようとする時、どんな知識・経験を用いてどんな角度から見るかによってずいぶん世界の見え方は変わります。大多数が見ている方法によって見てさえいればその認識は正しいのでしょうか?また、正しいという時、何を根拠に、何を基準に正しいと言えるのでしょうか?子供の頃の私は自分の認識が他人と少しだけ違っていると思う事がありました。ほんの少しだけ自分が傾いていると思っていました。その事によって、ほんの少しのコンプレックスが生まれ、ほんの少し自意識過剰になりました。しかし、みんなと同じようになりたいという思いは、やがてその考え自体が間違っていると気づきました。大人になった私は、少しだけ傾いている事をみんな上手に隠している、という事に気づく事が出来ました。私の出会ったある人は全くそれを見せませんでした。またある人はほんの少しだけ見えてしまっていました。それでも何らかの矯正によって傾きを修正していました。傾いているとバランスが悪いと思ったのでしょう。

 前置きが長くなりましたが、私には世界がほんの少しだけ傾いて見えます。正確には、自分が傾いているのですが、かつて傾いていない世界を見るための眼鏡もこしらえたので、傾いている世界と傾いていない世界を比較してみることができます。個人的な話ですが、私にとって右15度だけ傾いた状態がもっとも心地よく、もっともバランスが取れているように感じます。しかしその心地よさを作品で指し示そうと企てるのですが、世界の全てを一度に見る事が不可能なように、一つの作品で総体を見せる事は私には出来そうにありません。そこで私は0度のものをほんの少しだけ傾けて作品を作ります。出来上がった作品は、ありふれた素材でできているため、それぞれが単なる思いつきのように見えるかも知れませんが、私の中のルールに従ってどれも右15度だけ傾いているのです。

 「右15度傾いている」と認識できる事自体「矯正されている状態」であり「眼鏡をかけている状態」です。共通認識を0度とすれば、みんないろいろな度数の眼鏡をかけて0度にあわせていると言えるでしょう。そしてある意味で、0度の状態とは「盲目的に信じている常識」という言葉に置換できます。しかしながら私は、盲目的に信じられている「常識そのもの」よりも、もう一つ下の階層にある「それをバランスがいいと思っている共通認識」の方をあぶり出したいと考えています。それによって、我々が否応なく生きていかなくてはならない唯一与えられたこの現実世界の奇妙さが、もしかしたら逆照射されるのではないかと思うのです。

2003年1月