火星に行くのにロケットを持ってる奴はそれに乗っていくだろうが、
それがない時に、どうやって火星に行くかを考える事のどこが悪いか!
現代アートが新しいもの探しの場の様に言われて久しいが、実は、新しいものとは観る人にとって新しいだけなのであって、作り出す側にとっては特に「新しいものを生み出そう」という目的で制作してる訳じゃないのだ。
世の中には新しいものを生み出す事のみに意義を感じて躍起になっておられる輩も確かにいるが、そういうところから生まれるものは方法・手法が目新しいだけで実はリアリティーの乖離した表象的な思いつきアートに過ぎない事は、定点観測すれば一目瞭然である。
新しいタイプの作家が出てくるというのは、そのアーティスト自身が新しいタイプなのであって、
手法だけ奇をてらっても継続性は保てない。要は、新しい古いって事なんぞどうでもよくて、ひとりのアーティストのリアリティーがどのような形で一般におけるリアリティーと合致するかがアーティストの価値を決定するのだ。
そしてそのリアリティーとは、個人(制作者も鑑賞者も)の中に幾重にも重なった経験のレイヤーに格納されており、あらゆる階層にあらゆる種類のリアリティーは存在する。絵画が好きな人にとってのリアリティー、食に興味のある人にとってのリアリティー、健康についてのリアリティー、マネーのリアリティー、恋愛のリアリティー、、、etc。それらの混色によって、ひとりの人間の多面性が集約された形でのパーソナリティーとなる。
私が思うアーティストとは、自分の中の「最も重要な事」に全関心が向き、あらゆる事象をそこに連結させ、そこに集中し続けられる人のことを言うのであって、何かを生み出す行為(制作)とは、その結果としての行為であり出来事であり仕草だ。(副産物とまでは言わないが)
だから「新しいものを生み出して、世の中に名前を残す」てなイヴェンター的な事を真面目に企てている君!不毛で無謀で無駄な努力はやめて、まずは自分の足下を直視して自分の特殊性を確認すべきだ。少なくとも君には十分すぎる特殊性は備わっているのだから。
2005年1月